祖父 生出光男の記録

       OIDE MITUO

死因 直腸ガン   血液型 A型
生年月日 1906年03月09日
没年月日 1979年10月09日

出生地 宮城県

情報の開示 20回忌後


建立者 生出昭彦
      〒362 埼玉県上尾市小泉406番地の29電話 
       048(725)7723 



遺体処理  火葬 

    埋蔵墓処名 牛久浄苑 生出家墓処 (但し永代管理制)
    墓地使用者名 生出昭彦
    所在地 茨城県牛久市久野町牛久浄苑 第2区11列20番2号
    骨壺


総本山廻向

    本成寺  法華宗陣門流
    所在地  新潟県三条市

   戒名  勸学院照月光道居士


菩提寺

    法光寺
    所在地 〒116 東京都荒川区西日暮里3丁目8−6


生い立ち

    明治39年 宮城県桃生郡広淵村(現 河南町)にて生まれる。 
    生出本家は古川市にあり、昭和始めに兄弟全員がブラジル移民としてサンパウロへ渡ってからは家とくを相続、
    単身上京し、早稲田工手学校(現、早稲田大学専門学校)で土木測量術を修得、父誠吾郎と同じく技師となる。 
    昭和9年 市川市で結婚、2男1女の父となり 同24年離婚 
    東京台東区に不二工務所を開設、不二旅館を兼営、同54年10月9日三井記念病院にて永眠。


表彰

    日本赤十字特別社員


趣味

    中国歴史書、国史書(日本外史−頼山陽著)などの研究  漢文体を読みこなし故事にも精通、
    父誠吾郎や、東京での苦学生時代、弁護士の書生となって学び続けたという。 
    漢籍のコレクションは、東京邸解体の折、整理されて残されていない。
    水墨画などのコレクションは一部が埼玉新邸に保存されている。


座右銘

    中国の故事の研究をしていたため多くを有していたと思われるが、それを書き残したものはなく不明である。 


遺言

無教養な人間であってはならない。   
ステータスとは関係ない。 
学歴がなくても教養は身につく。
労働者になっても教養あるものは一目置かれて、リーダーシップをとらされる。 

   一枚の紙切れ、いっぺんの肩書きで肩で風を切れる程、世の中は甘くない。
   教養は人生を愉快にしていく。これを忘れない様(昭和52年春頃)
一生涯本を読むことだ。情報は自分で集めることだ。 
   人のいうことは当てにならないと思う位の心で、自分で考える力、自分で書いて人に伝える力、
   人の話をよく聞ける力、人の書いたものをよく読みこなせる力、これがつけば、どんな道でも成功する。
   学者になっても職人になってもいい。どちらでもこれは大事だ。いいか。(昭和53年頃) 
神にすがるな、仏法を学べ
   (高校の)入学おめでとう。おじいさん、もう長かない。だから云っておく。 神にすがるな
   バアさん(後妻さん)の信仰じゃだめだ。仏法を学べ。
  
 支那から伝わった教えはそんな浅薄なもんじゃない。(昭和54年4月)


思い出

   祖父光男は上京後
   市川旧生出邸(昭和9〜24)、55年解体
   東京生出邸(昭和24〜55)、平成6年解体 共
   自ら図面を引いて建築指揮に当ったという。

   私の幼い記憶に残るそれ等の立派な家は、今でもよく夢に出て来る。洋間が一つだけある古風な家だった。
   その東京邸で中学生の私を相手に、晩年の祖父は、難解な漢文を教えたり、人生訓を教えたり、立派な皮グツをプレゼントもしてくれた。 
   着物姿でキセルを吸って大きな机の向こう側で漢籍ばかり読んで聞かせる祖父。冗談もよくとばす。
   週1回、私は当時住んでいた市川から東京の祖父のもとに通って、家庭教育を受けさせられていた。


その他

ブラジルへ渡った生出一族はその後どうなったか...。 

一世の人々はサンパウロ市を中心に様々な生業を営んでそこそこに地歩を固めていた。
昭和54年、祖父の死去の少し前に来日した弟の生出誠一氏の証言によって、
祖父があまり話したがらなかった宮城県の故郷の寺の様子などが判明、これを基に、
平成6年私が施主となって法華宗の檀徒に復帰した。 

叔父の生出克彦は明治大学工学部卒業後、建築士となったが祖父のあとは継がず、
ブラジルへ渡って結婚、永住している。 
二世以降の人々は、現地でもあまり交流はも早無く、日本の私たちとは交流はない。
ブラジルとはあまりにも遠い国である。日本の生出家は現在は傍系親族のない単一の家系である。
早く元気な子孫を繁栄させて欲しい。 

生出家は宮城県がそのゆかりの地で全て「おいで」と読む。
ブラジルへ渡った人々も勿論全員「おいで氏」だ。戦災で台東区役所(下谷区役所)消失、
昭和21年、戸籍の作り直し作業の時、職員が「いくで」と読みちがえてから祖父が転姓したという
面白いエピソードがある。

父靖彦は「いくで」を名乗り、叔父克彦は「おいで」を名乗り、私は「おいで」を父とは逆に12才から本姓とした。
戸籍の読み方は自由だが各自において終身統一せよとの役所の指導による。